2019年10月27日日曜日

10/26: バージン捕囚

[11/3追記: この記事よりも、先に「マッチングアプリを使ってみた」を読んでいただくことをお勧めする。]

今回は特に性的な話でも汚い話でもないのだが、かなり見苦しい話ではある。そこで、一応「続きを読む」の中に格納しておくことにする。

ふと思い立ってマッチングアプリに会員登録してみることにした。写真をアップロードして、自己紹介文を入力する。そうすると、ずらずらと女性の顔写真が並べられた画面に移った。なるほどなるほど。ここでいいねを押して、お互いにいいねを押し合えたらマッチング成立ということらしい。そこから先は(男性側が)有料会員に登録するとメッセージを送り合えるという仕組みだそうだ。ただ、その使用料が私の金銭感覚にしてみればなかなか高額である。仕組みは分かったので、本腰を入れてやるのはまたお金の工面ができたときということにして、一旦退会することにした。さて、買い物にでも行くか。
......。あれ、自分の心の中の様子が何やら変だ。軽い目眩のように頭が少しくらっとして、部屋の中で立ち尽くす。心の中がざわついたかと思うと、胸から頭に向かって重く淀んだ感情が込み上がってくる。
気付けば私は泣いていた。また涙か、全くもって困った人だ。私も随分と泣き虫になったものである。どうやら、私はまだ囚われているらしい。いい加減にしてほしい。

自分が一目惚れできる人間だったら、顔が好みという理由だけで恋できる人間だったら、立ち直る上でどれほど楽だったろうかと思う。「彼女」は、私にとってあまりにも唯一無二の存在になりすぎていた。
こうやって顔写真をたくさん並べられたところで、一体どうしろというのだろうか。(サクラなんかもいるのだろうが、素朴には)画面の向こう側にいる(のであろうと想定される)人たちに対してどう向き合えばよいのか、今の私には全くもってわからなかった。
私は、「彼女」に告白する前、彼女と付き合うことができたらどんな毎日になるだろうかと色々と夢想したものだった。手を繋いだら、彼女はどんな反応をするのだろうかと思ったものだった。彼女は奥手で、純粋で、生真面目な人だった。彼女のことを好きになればなるほどに、私はその内面を愛おしく思うようになっていた。でも、彼女の内面になんて、惚れ込まないほうがよかったのだ。話が合うし見た目もまあまあタイプだな、ただそれだけで済ませておけばよかったのだ。

彼女はどこまでも純粋だった。私に女性経験がなかったのと同様に、彼女の側にも男性経験はなかった。私は、男性経験がない彼女が、初めて恋人と手を繋いだらどんなに可愛い顔をするのだろうかと思ってしまった。その相手が私だったなら、その顔を間近に見ることができたなら、どんなに幸せな気持ちを味わうことができるのだろうと思ってしまった。ところが、私が夢見た幸福は手に入らなかったし、そして、これから誰かと付き合えたとしても、やはり私が見た夢のようにはならないのだろう。あんな純粋な人、同年齢の知人の中では私は彼女以外に知らない。私の回りにいる大体の異性は、少なくとも一度は誰かと交際した経験があるようだ。
彼女の代わりを他の人に求めてはいけないことくらい、頭ではとっくに分かっている。それでも、私が彼女のことを忘れようと意識的に思うたびに、私の心は彼女の代わりを求めてしまう。私が夢に見たあの顔を実際に見せてくれるような、そんな人を求めてしまう。私が彼女のことを忘れたいと強く願えば願うほど、彼女の幻から離れられていない自分の内奥を自覚する。そんなだから、マッチングアプリもまともに使うことができない。たかが1時間触っただけで泣いてしまう。口では出会いを求めていると言いつつも、いざ出会いに向けて行動しようとすると心の中にシャッターを下ろして閉じ籠る。その内側で立ち上がるのは、私がデートの思い出の残渣を床に並べて作り上げた、彼女の姿のホログラムだ。シャッターの内側に閉じ籠るから、余計に彼女の幻の中に取り込まれていく。ホログラムは決して私を癒してはくれない。それは、ただ傷口を抉って広げることしかできないオートマタだ。そして、私はそのことに自覚的だ。進んでいる道の先には、絶望と苦しみのスパイラルが展開している。彼女の幻は、果てのない痛みへとしか私を誘わない。私はそれにちゃんと気付いている。そこがたちの悪いところだ。
執着を捨てようとするから執着する。実に逆説的だ。そして実に皮肉である。私の首は、私が大好きな「逆説」の手によって絞められているのだ。

交際相手に処女性を求めるなんて、小さい男だなと我ながら思う。だが、大きな男であるためには、私はあまりに繊細すぎた。私はあまりに初恋の人の性格に入れ込みすぎていた。顔で交際相手を選ぶ人は、一般にけなされがちであるが、そう悪いものでもないはずだ。男としての度量は、私よりも彼らの方がきっと大きい。
自分には魅力がないな、と思う。自分が決して容姿端麗ではないことくらい分かっているが、今は内面においてもカスカスのゴミであるように感じられてならない。もともと卑屈な面があったのだが、それがどんどん悪化している。果たして私が次の恋へと進むことはできるのだろうか。処女性を求める今の自分に好かれたとして、ただただ気持ち悪いだけだろう。卑屈で情緒不安定な私から好意を向けられても、本当に迷惑なだけだろう。
私は最悪だ。私は醜悪で、無価値で、政治的に正しくない。私は自分が糾弾されるべき存在であるように感じられる。

私の半身は、未だ未練のどぶ沼に浸かっている。体にまとわりつくそのどぶ沼が、私をいわゆる「処女厨」にしているのだ。
一体どうすればいいのだろう。とりあえず、辛いことはネタにして笑い飛ばすというのが私のポリシーであるから、この涙をネタにする方法を考えてみる。人生ネタ、の精神である。

自分でギャグの解説をするのは無粋だろうが、ともかくもそういうわけで、この記事のタイトルも「バビロン捕囚」のちょっとしたパロディになっている。



ずっと、自分の「政治的な正しくなさ」について考えている。2019年5月4日、神戸布引からの帰り道で「彼女」が吐露したのは、女性という理由で抑圧される社会構造に関する悩みだった。我々の社会は、一体どうしてこんな形になっているのだろうか。

この歪んだ抑圧に塗れた社会を作り出しているのは、結局のところ個人の自由な行動の集積である。ミクロな視点での幸福の追求が、マクロな社会的圧力を生み出し、人々を生きにくくして苦しめている。どうしてこんなに生きづらいのだろうかとしばしば思う。私も、そこから逃れたかった。私は、「初恋」の最後で、私は自らの幸福を追い求めることを決意した。だが、そうした個々人レベルの幸福追求行動こそが我々を抑圧する力の源泉なのだとしたら、私は一体どうしたら救われるのだろう。
以前、エマ・ワトソンがフェミニズムスピーチをして議論を呼び起こしたことがあった。そのスピーチに対する批判は、主に「男らしい男と交際しながら、性の解放を訴えるとは矛盾していないか」というものだった。エマ・ワトソンは、「フェミニズムの本質は自由だ」と再反論した。私には、何の葛藤もなくこのように堂々と主張できるエマ・ワトソンが羨ましく感じられてならない。なぜ人々が「男は男らしく、女は女らしく」と思い込むのかと言えば、それはそうした様態がマジョリティに好まれるためである。男らしさ、女らしさは、自由恋愛市場における性的価値と同時に、資本主義市場における金銭的価値をも生み出すのだ。そのマジョリティの選好とは、単一の意志ではなく、個人のベクトルを足し合わせた結果として立ち現れてくる、いわば実体のないものである。人が自由を謳歌した結果として現れるものなのだから、誰を責めることもできない。ここには、牢屋にぶち込めば全て解決、となるような悪人の存在を想定できない。自由市場における「神の見えざる手」こそが、社会的性役割を強調しているのだ。
いわゆる「萌え絵論争」も、こうした自由と抑圧のコンフリクトとして理解できるだろう。女性の性的魅力が強調されたイメージを公共空間に置くことは、商業的成功という観点からも、表現の自由という観点からも肯定され歓迎される。その一方で、公共空間で女性の性的魅力を強調することは、人々に対して「刷り込み」となり、ある種の抑圧として機能するという懸念は否定できない。個々人の自由な行動の総体が、結果としてステレオタイプな性役割の強調に結びついてしまうのだ。だからと言って、資本という魔の手から性を完全に切り離すことなど、今の社会ではほとんど不可能に近いことであろう。従って、線引きをどこに置くか、どこで妥協するかを考えなければならないわけだが、このような議論は得てして不毛なものに終始してしまいがちである。
自由は必ずしも人を幸福にするわけではない。自由化で解放される人間の欲求は、私がそうであるように、必ずしも政治的に正しいものではない。エマ・ワトソンのようなやり方では、自由市場における強者しか救われないだろう。強者でなければ、政治的に正しくあろうとする限り、自らの手で自らに内在する根源的な欲求を押さえつけなければならない。
私は、もう、「よく」振る舞おうとすることにすっかり疲れてしまった。「よく」振る舞うことは、決して私自身を幸せになんてしてくれない。私は、ただ、自分自身も含めて、みんなが仲良く楽しく暮らせる社会を願っただけなのに、どうしてこうなってしまったのだろう。助けてくれ。もう考えたくない。考えても疲れるだけだ。いくら考えたところで、私を救ってくれる人が空から突然落ちてくるわけでもない。
この歪んだ社会の中に取り込まれる一方で、私は自分を幸福にしようと頑張ってきた。しかし、その努力がもたらすマクロな結果とは一体どんなものなのだろうかと思いを巡らしたとき、心の中に暗い影が落ちるのが感じられた。「彼女」の苦しみの源は自分自身の中にあった。でも、どうすることもできない。自分にも社会にも、何もかもうんざりである。早くこの場所から退出したい。殺してくれ。

夜、買い物をしに少し出かけた。帰り道、頭痛がして、頭がくらくらした。足取りが少しだけふらつく。疲れているようだ。体の疲れと呼応するように、メンタルも瞬く間に闇へと引きずられていく。死のことしか考えることができない。今、高層ビルの屋上にいたのなら、このふらつきに任せて飛び降りてしまえるのにな。ああ、そうだ。自分が今ここで自殺したら、「彼女」は葬式に来てくれるだろうか。僕のために泣いてくれるだろうか。僕の死を引き摺ってくれるだろうか......。そんなことばかり考えてしまう。我ながら実に気持ち悪い感情である。考えたくもないのに考えてしまう。止めようとしても止めることができず、振り払おうとしても振り払うことができない。自分が嫌になってくる。帰宅して、ベッドに倒れこむようにして顔を埋めた。気分が悪い。薬を取り出し、流し込む。何度か、おえっ、と恒例の吐き気がした。
学問はいくら取り組んだところで何も理解できないし、「彼女」をいくら追い求めても彼女のそばにいることは許されない。そして、それら以外のことはつまらないし最終的にはどうでもいいと感じられる。私は自分は優秀な部類であると自負しているし、この明晰な頭脳は多くの人に羨まれた。それなのに、本当に欲しいものが手に入らなくて、それがどうしようもなく苦しい。自分の人生を肯定することができない。全てが、空虚で無価値なものに感じられる。何をどうやっても、どうすることもできない。悩めども悩めども全くどうにもならなくて、ただ絶望と虚無だけが広がる荒涼とした荒野だけが目の前に広がっている。
麻薬による幻覚でもなんでもいいから、爽やかで青々とした原っぱの中にいたいものだと常々思う。疲れ切った。何もやる気が起こらない。頑張っても、頑張らなくても、苦しみしか生まれない。本当に如何ともし難い。兎にも角にも、今日のところは、ひたすらに死にたいという気持ちでいっぱいである。私は、自分の才能を自負しつつも、その才能を有効に活かすことができないでいる。私は、曲がりなりにも、東京大学に選ばれた人だ。持てる者でありながら、ここまで死にたいと思ってしまうのが申し訳なくてならない。
くだらないことや意味不明なことばかり言って自分自身を笑かしながらなあなあでやっていくやり方も、もう限界が近いのかもしれない。行くあてのない荒野の中を彷徨いながら、今にも擦り切れてしまいそうな自分の心を、どうにかしてつなぎとめるための方法を模索している。

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