祖父母宅の家のキッチンには透明な壁で囲まれた一角がある。これは食料庫で、地下道を通って入るようになっている。伯母を困らせようと地下道に罠を仕掛けてみた。すると、伯母は私も知らない経路でいつのまにか食料庫に侵入していたようだった。
さて、私は母方の祖父・父とともに温泉に入っていた。しばらくすると、祖父が、我々が風呂に入り始めてから1日が経ったと言う。確かにそれくらい経った気がする。3人とも上がった。帰宅した。母とともに、祖母を迎えに行くことになっていた。母は、不機嫌そうに父の死を告げた。聞けば、車を運転していた父は、執拗な煽り運転を受け路肩に停車したところ、横から衝突されて殺されたのだという。私は大いに混乱した。気付けば祖母を迎えに行く母の車内にいて、私はその中でただ泣いていた。
……あっ、と声が出る。目が覚めた。よかった、夢か。私はほっとした。目を開けたその瞬間、私の目から何粒もの涙がこぼれ落ちた。夢の私だけでなく、現実の私も夢を見ながら泣いていた。
私は救いを求めているが、他人のそれは求めていないしあってほしくない。私が救われても何も悲しくない(救われた私に感情はない。これは、救いが救いとして機能する理由の1つといっても良い)が、他人が救われるのは大変悲しい。私は他人の感情にやや無頓着かもしれないが、自分の感情には大いに注意を払う。私は自分の救済を待ち望んではいるものの、他人の救済は嫌である。私は自分勝手な人間だと、つくづく思う。
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